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クラシックの名曲たち

2011年12月 1日 (木)

ギュスターヴ・シャルパンティエ イタリアの印象 ~ジュール・マスネの弟子たち

【マスネの弟子たち】
ジュール・マスネの門下はガブリエル・フォーレのそれほど華やかではなく、エルネスト・ギロー=ポール・デュカ(後継にメシアンが連なる)、さらには、セザール・フランク=ヴァンサン・ダンディ(後継にアルベール・ルーセルなど)の門下のように、後世につよい影響を及ぼしたというような面もあまり指摘できない。しかし、それにもかかわらず、この時代と深く結びついた数多くの作曲家が、一所懸命的に才能を開花させた。今回、主にその作品を紹介するギュスターヴ・シャルパンティエのほか、レイナード・アーン、ガブリエル・デュポンなどの作曲家がそれである。形式等の目にみえる形で、彼らの作品は後世とはつながっていないが、その中身には多くの「新しい」作曲家たちも感嘆を示すであろう。

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2011年7月22日 (金)

テオドール・ベルガー 交響的トリグラフ/管弦楽のなかの女声 レーベル:(Antes Edition)

今回、紹介する作曲家について、私は十分な知識をもっていないことを前提しておく。NMLにも、ただ2つの音源しかないのである。その作曲家、テオドール・ベルガーは1905年、オーストリア生まれで、ウィーンでフランツ・シュミットに師事した。今日的な知名度に比べれば、戦前から戦後10数年の短い間は、非常に注目された存在だったという。特にフルトヴェングラーが彼の作品を大々的に認め、ベームやカラヤンといった名指揮者もこぞって演奏したというほどである。

実際、NMLで聴ける録音のうちのひとつは、ホルスト・シュタイン、そして、ラファエル・クーベリックという名指揮者たちの手によるものである(もうひとり名前の見えるルドルフ・アルベルトも、メシアンの作品の初演などを数多く手がける高名な指揮者であるという)。

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2011年2月 8日 (火)

ショパン ノクターン op.27 ゼロの作曲家の本質

【ショパンとノクターン】

ショパンの作品のなかでも、ノクターンはとても特別なジャンルであると思う。もっともショパンらしい特徴の顕れている作品として、マズルカやポロネーズを挙げるのは普通のことだが、マズルカのところでも書いたように、彼を「ゼロ」の宇宙的な作曲家と位置づけたときに、ノクターンの重要性はかなり高まってくるであろう。

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2011年2月 4日 (金)

ショパン マズルカ op.6/op.7 必ずしも華やかではなかったパリにて

【花の都、パリ?】

ショパンは1831年、ウィーンを去ってパリへやってきた。「花の都」たるパリのイメージからみれば、ショパンはいよいよ彼の個性に相応しい華やかな街にやってきたかのようにみえる。そこではいささか不健康な暗さのある、いまでいえば、政治評論家の姜尚中(カン・サンジュン)や戦場カメラマンの山路徹のもつような「影」こそが愛されるのだ・・・という昼ドラのようなイメージで、我々はイメージをつくりがちだ。だが、このときのパリは、我々の思うような街とはいささか異なっていた。

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2010年12月 2日 (木)

フィビヒ ピアノ五重奏曲 (1894年)

 参考録音:アンサンブル・アヒト(Thorofon)

ズネニェク・フィビヒはドヴォルザークよりも10年弱、遅れて生まれてきたものの、ほぼ同時代人と考えて間違いではないだろう。そして、多分、この世代におけるチェコの作曲家のなかで、もっとも模範的な作曲家と目されたにちがいない。ただし、彼はプラハ音楽院などの教育機関で教授職などに就いたことはなく、ドヴォルザークを激しく攻撃した評論家のズデニェク・ネイェドリー、作曲家にして指揮者でもあったオタカル・オストルチルなどの弟子もあったとはいえ、これは個人的な私淑によるものであったようである。

さて、そんなフィビヒを「もっとも模範的」と評するのは、彼の作風が国民楽派的なそれよりも、ドイツやフランスの伝統を引きながら、ちょっとばかりはスラヴ風という「正統的」なラインにちかいと思ったからである。伝統芸術の継承には、前時代のものをちょっとずつ変えていく慎重なものと、圧倒的に斬新で革命的なものと、両方が必要であると思う。我々はしばしば後者のものばかりに目を奪われるが、自分たちの守ってきた流れを堅持して、あとの世代にバトン・タッチしようとするコツコツした仕事も、「保守的」の一言で評価されるべきではないのではないか。

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2010年10月20日 (水)

ショーソン 交響曲 変ロ長調 (1890年) 〜ミトロプーロスの指揮による

私の愛する作曲家のひとりに、エルネスト・ショーソンがいる。40代半ば、自転車事故により不可解で、突然の死を迎えた天才的な作曲家は、フランキストのなかではもっとも才能ゆたかといわれながらも、その真価を問われぬままにこの世を去った。元来、慎重で寡作なほうだったようで、遺された作品は実に少ない。多分、いちばん有名な作品は『詩曲』であり、これにピアノ・トリオ、歌曲『愛と海の詩』、それに、ここに紹介する交響曲がつづくという感じだろう。

1989年に着手され、翌年に作曲者自身の指揮で初演を迎えた変ロ長調の交響曲は、結局、彼の遺した唯一の交響曲となった。ワーグナーやフランクからの影響が濃厚で、できれば第2番の出現に期待したかったものだが、この交響曲も愛すべき作品であることは間違いない。ここでは、ディミートリー・ミトロプーロスの指揮による録音を例にとり、話を進めたい。

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2010年9月29日 (水)

シベリウス 交響曲第6番 1923年 P.ベルグルンド指揮ヘルシンキ・フィル(EMI)

フィンランドの作曲家、ジャン・シベリウスについてはいまさら説明の必要もない。しかし、その作品のなかでよく知られたものは、ほんの一握りでしかない。交響曲でいえば、キャッチーなメロディで知られ、わが国でも名曲として定着している交響曲第2番が圧倒的に高い知名度を誇る。それと、交響詩『フィンランディア』が人気の上では双璧をなす。ただ、シベリウスが好きで堪らない人たちにとって本当に大事と思えるのは、交響曲では第5番以降の3曲だろう。形式美の凝縮した第7番や、フィンランドの雄大な自然が詰まったような第5番もいいが、私にとって愛着が深いのは、その間にある第6番である。

ここでは、パーヴォ・ベルグルンド指揮ヘルシンキ・フィルの演奏を中心に、この曲について語ってみたいと思う。

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2010年1月21日 (木)

プロコフィエフ 組曲『キージェ中尉』 (1934年)

 参考録音:
  ホーレンシュタイン指揮コロンヌ管 (Voxレーベル)

今回は、セルゲイ・プロコフィエフの組曲『キージェ中尉』を取り上げます。作品はもともと、ユーリイ・トゥイニャーノフの同名映画のために作曲され、公開(1933年)の1年後に、プロコフィエフが5曲を選んで組曲としたものです。本来、第2、4曲にバリトンの独唱が付された版が存在しますが、現在、大抵の場合は管弦楽のみで演奏されています。

今日では、映画そのものをみる機会はあまりないので、その内容は詳らかにはわかりません。しかし、皇帝にくしゃみをさせた犯人として架空の「キージェ中尉」がつくりだされ、その架空の人物がシベリアに送られたり、存在しないはずの中尉が恋をして結婚したり、逆に皇帝の寵愛を受けるようになったり、ついには死んだことにして葬儀までが出される・・・というドタバタ劇の筋書きはよく知られています。制作の1933年がスターリン時代であったことを考えると、気まぐれな沙汰で廷臣たちを振りまわす皇帝の横暴を風刺するとともに、その周りで嘘に嘘を接いだ廷臣たちの二枚舌を風刺する2本立てのイロニーが仕組まれた作品だったと思われます。

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2009年7月 9日 (木)

ヨーゼフ・シュトラウス ポルカシュネル「憂いもなく」 @1870年

 参考録音:
  クレメンス・クラウス指揮ウィーン・フィル

ヨハン・シュトラウス(父)の3人の息子たちのなかで、今日、もっとも有名なのは同名の長男です。彼は俗に「ワルツ王」と呼ばれ、もっとも作品が多いですし、例えば、ウィーン・フィルの新年のコンサートでも毎年、もっとも多くの作品が演奏されています。また、舞台芸術のなかでも重要な位置を占めています。しかし、このヨハンがイチローのようなアベレージ・ヒッターだったとすれば、弟のヨーゼフ・シュトラウスは、より人々のこころに突き刺さるようなホームランを打てる天才打者だったのではないでしょうか。

それは例えば、シュトラウス・ファミリーのワルツの形式から、そう大きくは抜け出ていないにもかかわらず、どこかはみ出たようなスケールを感じさせる「天体の音楽」1曲を聴くだけでも明らかだと思います。兄同様、結局は200以上の作品を遺した多作で、職人的な作曲家だったことは否めないとしても、兄の作品より、ヨーゼフの作品は人間の内側に鋭く切り込んでいくような、深い要素をもっています。

父の教えに従って進んだ実業界に、大いに未練のある弟へ発破をかける言葉だったのかもしれませんが、兄・ヨハンは自分よりもヨーゼフに、よりゆたかな才能があると語ったとされているぐらいです。

【1870年ごろのオーストリア】

ポルカ・シュネル「憂いもなく」は、1870年の作品です。原題は、”Ohne Sorgen”となり、直訳して「憂いなく」ですが、間に「も」を入れることで、より優雅で、余裕綽々たる雰囲気になっている訳題でしょう。

1870年はどういう年だったかというと、まず1月に、1837年に発足したウィーン楽友協会の尽力で、今日につづくムジークフェライン・ザールが開場しています。同じ年、かつて領邦だったプロイセンはフランスとの戦争に突入しますが、1866年の普墺戦争の敗北により帝国から弾き出されていたオーストリアは、幸か不幸か、関係がありません。

この時代、オーストリアは興味ぶかい状態に置かれています。まず、政治的にみると、どうやら凋落の一途を辿っていきます。先の普墺戦争の結果、自立を危ぶまれた国家はハンガリーとの関係を強め、オーストリア=ハンガリー二重帝国を形成することで、ようやく生き残りを図るという状況です。かつて欧州の中心的な位置を占めたハプスブルク帝国の勢威はもはやなく、政治の表舞台から、オーストリアの重要性は削られてしまいそうな状勢です。

しかし、経済や文化の面でみると、どういうことか、上昇局面にあります。市壁が取り払われて都市の再開発が企図され、工業化や、鉄道など交通インフラの整備が一気に進みます。ウィーンの人口は、1869年の63万人から、僅か40年ちかくの間に3倍以上に増加することになるのです。1873年にウィーン万博が開催されるように、当時のウィーンはなかなかの勢いだったのです。

世紀末ウィーンは政治的な没落傾向にもかかわらず、そのように不思議な活気に満ち溢れていました。万博の年、ウィーンの株価が大幅に下落したというのに示されるとおり、勢いはさほど長続きしませんでした。とはいえ、ポルカ・シュネル「憂いもなく」は、そんな時代の風景を遺憾なく物語っています。そのなかで、ヨーゼフ・シュトラウスは一体、どんな時代観をもっていたのでしょうか。

【隠れているメッセージ】

ヨーゼフは、技術者の出身です。彼らの父、ヨハン・シュトラウス・ファーターは、音楽で身を立てることは難しいことを身を以て知っていたので、息子たちがその道を歩むことを望みませんでした。ヨハンはそれに反発して自らの楽団を組織し、一方、ヨーゼフはその忠言の正しさを認めて、技術者の勉強をしました。音楽家としてよりも、テクノクラートとして国家に貢献していきたいと考えていたであろうヨーゼフにとって、彼の同僚たちが成し遂げるであろうウィーンの発展を、つよく信じることは自然だったと思います。

確かに、「憂いもなく」には、太鼓がゴーン、ゴーンと鳴り響き、突貫工事でウィーンの開発が進んでいることが示されます。そして、「ハ、ハ、ハ、ハ」という笑い声によって、ウィーン市民の自信と達成感が象徴的に描かれてもいます。

しかし、同時に、この作品はすこしアイロニカルでもあります。例えば、2分にも満たない演奏時間は、この景気が一時のものでしかないことを示しているのかもしれないし、そのためにわざわざ「ポルカ・シュネル」という急速な曲のスタイルが選ばれている可能性もあります。

参考録音として挙げたクレメンス・クラウスの演奏は、耽美的なウィリー・ボスコフスキーの録音などと比べると、より厳しさのある演奏といえましょう。そこでは軽快なノリのなかにも、なにか張り詰めたものが感じられて、ウィーンの再生にかける市民の情熱と、「こんな時代は二度とないから、いまを生きろ」というようなメッセージが伝わってきます。

この時代の美点は、野心的なビスマルクの治めるドイツ人国家から切り離され、戦のつよいハンガリー人と結びついたことで、戦争の驚異からウィーンが遠ざかったことです。太鼓の響きはしばしば大砲の音に擬せられましたが、この曲では、それが大槌で鉄棒を打ちつけるような音に取って代わっています。大砲は遠ざかり、都市建設の響きがちかくにやってきたのです。ヨーゼフは、そのことにも注目したと思います。

【まとめ】

こうして見ていくと、数分にも満たない「憂いもなく」のなかに、抱えきれないくらい多くのメッセージが潜んでいることがわかります。これを読み解こうとしないことには、シュトラウス一家のウィンナー・ワルツは面白くも何ともないのですが、「憂いもなく」もその例に漏れません。

この作品は、ワーグナーが「ラインの黄金」を示し、ヴェルディが「ドン・カルロ」や「アイーダ」を上演し、また、ブラームスが「ドイツ・レクイエム」を初演するような時代に書かれているのですが、たった数分にして、それらの作品と向きあうだけの力を持っているといっては、さすがに言いすぎなのでしょうか。

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