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2020年6月13日 (土)

新型コロナをめぐるオーケストラの運営についての考察

【近年におけるオーケストラの経営改革】

オーケストラの運営は近年、国や自治体をめぐる様々な財政的、政治的な事情や、市民の考え方の変化から、より一般企業にちかい感覚が求められるようになった。事務局による財テクの失敗など、非構造的な問題はさておいて、大阪では当時の大阪センチュリー響が橋下市政で、助成対象から外されるという痛ましい変事が起き、楽団運営に先立つものを公的助成だけに頼りきるべきではないという課題も見つかった。また、国(文化庁)の助成も公益財団法人のみが対象とされるようになり、その条件のひとつである負債の解消、運営の黒字化などに向けて、各団は必死の改革を続けた。演奏活動をする地域の範囲を広げて、収入を増やしたり、オペラやバレエ、自治体や民間による活動などに積極的な取り組みをみせて、かなり多忙なスケジュールを詰め込んできた楽団もある。その結果、楽団の事情によって差はあるものの、ほとんどの楽団で単年度赤字は解消し、ある程度の蓄えを積み上げながら、健全な運営ができる体制が整ったかに思われた。

【コロナ禍における経営の混乱】

しかし、十分ではなかった。2020年の新型コロナ・ウィルスによる重大な影響により、各楽団は2月末から3月初旬に始まり、数ヶ月にわたる演奏活動の停止(自粛)が求められた。公益財団法人はその性質上、多大な営利をあげることが制限されており、内部への蓄えも十分ではなかった上に、これらの団体になにか未曽有の問題が起こった際に使える、公的な基金のようなものも準備されておらず、ようやく、問題の発生後に形ができるに止まっている現状だ(まだ器ができただけで、中身は空っぽにちかい)。緊急で国が用意した雇用維持や事業継続のための給付金は僅かであって、給付も遅れており、3末を控える楽団の経営は危機に立たされた。公演ができず、手もとにキャッシュが入らない上に、演奏が行えなければ、公演に対して約束されていた助成金も下りないからである。多くの楽団はそれぞれにできる形で、ネット配信などのパフォーマンスを行うことで寄附などを募るしかなかった。

現時点で、事実上の倒産を発表した楽団がないのは幸いである。メガバンクや企業財団などから、大口の支援もいくらかは発表されている。ただ、いわゆる「コロナ禍」では、ITなどの一部産業を除き、ほとんどの業種で甚大、もしくは壊滅的な被害が出ており、企業からの広告費なども、まだ春先ということもあって、財布の紐はきつく縛られている現状で、根本的な問題の解決につながるほどのものは当面、期待できそうもない。

【演奏再開に向けて】

5月、6月あたりで、営業自粛要請は多くの業種で解除となる見込みで、オーケストラも十分な感染対策を行ったうえで、業界でガイドラインを定めるなどして、演奏活動が再開できることにはなっている。しかし、舞台上や楽屋などの問題で、十分な感染対策を行いながら演奏できるかについては、まだ多くの検証が必要なところで、客席についても、まずは席数を間引くなどしたうえで、入場人数を絞るなどの対応が求められることになるだろう。

楽器の演奏がどれほどのリスクを伴うかについては、世界的にも検証が進んでいる。このなかで、ウィーン・フィルはもっとも楽天的な結果を発表し、通常の編成も維持できると胸を張った。一方で、演奏家などから、そのような見解には疑問を呈する声もあり、再開当初は奏者間の十分な距離をとることや、フェイスガードやマスクの使用、透明な敷居を設けるなどの配慮が話し合われるのではないかと思われる。編成は古典派などの小さいものに限定され、室内管仕様の編曲や、弦楽四重奏曲などを含む室内楽曲そのものの演奏も検討に値する。また、公演時間も最初は短めにすることが求められるだろう。

客席は1列目を使用せず、千鳥構造に間引いて、会場のおよそ半数程度まで、フォワイエなどでのサーヴィスは止め、休憩はなしとするか、その間のオーディエンス間のコミュニケーションなどは控えてもらうことが必要だ。消毒液やサーモグラフィの用意も不可欠になり、演奏者、スタッフ、オーディエンスは、マスク着用などが基本的な義務、もしくはマナーとなるだろう。

【参考となるご意見】

https://www.yuzuki-miki.com/entry/2020/06/06/215332

リンクの記事では、オーケストラ運営の今後について、概ねネガティヴな見方がされており、それは題名からも推察できることだが、一方で、生き残るためには豪快な判断が必要という内容が書いてある。正直なところ、ここまでの「コロナ禍」によって、一体、どれほどの損害が生じたのか、具体的に報告している楽団は少なく、概ねの数字ぐらいしか漏れて来ない。平素と同じことだが、マスメディアなどによって深く取材された記事もないので、私たちに何か判断できる材料は少ないのが現状だ。寄附なども可視化してやっているのは、外部サイトを利用してクラウド・ファウンディングに乗り出した札響ぐらいのものである。

さて、ブログの書き手のプロフィールをみると、本業以外に、弦楽器を教え、販売もされているようで、この分野に他の方よりは造詣が深いという推測は成り立つ。記事を要約すれば・・・

①オーケストラの損害は大きく、それを埋めるのは難しい
②オーケストラの生演奏は当面、質が落ちるのではないか、見栄えも悪い
③クラシック公演で社会的(物理的身体)距離をとる必要はないのではないか
④再開にあたっての基準が不明確
⑤ゼロ・リスクを求めず、積極的にフル公演をおこなえ
⑥さもなくば、楽団数を減らすなどしてリソースを集中せよ

【損害が大きすぎる?】

①については、言うまでもない。楽団はなるべくオープンに情報を開いて、私たちが考えられるようにすべきだ。だが、定期的な事業報告とはちがい、借金などについては楽団の信用に関する秘密や、金融機関などとの関係もあり、どれぐらい詳細な情報を出せるかはわからない。日フィルが発表した3億円の減収、4億円の赤字(上記記事には3億円の『債務超過』とあり、間違いがある)というのは、確かにダメージが大きすぎるように思われる。しかも、今後、無事に公演の規模が段階的に回復していくのかどうか、どのようなペースで客足が戻っていくのかは予想できない。日本や英国などでサロン公演を主催する個人事務所MCSのブログによれば、英国および米国による調査でも、ある程度、病気の蔓延が落ち着いて公演が再開したとしても、ワクチンや治療法が確立しない段階では数ヶ月から半年は様子をみたいという愛好家が多いのも無理からぬことである。今後、秋以降に第2波、第3波が襲う可能性も指摘されていて、その場合は楽団の損失も現在の予想より拡大する。

一方で、数億円の赤字を背負った楽団も、過去にないわけではなかった。2012年のある記事では、神奈川フィルは一時、3億円ちかい債務超過を抱えていたようだ。しかし、2014年にはついにこのバランスシートがきれいになって、晴れて公益財団法人に移行することもできた。現在、同団は若く優秀なアーティストを多く迎え、若手指揮者の川瀬賢太郎をリーダーに意欲的な活動を続けている。もちろん、これはコロナ前のことであり、今後の経営環境はより厳しいことが予想される。例えば、一足先に解禁された映画館の状況などをみても、客足の戻りは鈍いようだ。まだしっかりとしたデータは発表されていないが、特にシニア層の行動は慎重になっており、そこを主要な客層としてもっていた芸術分野は、しばらく苦難のときがつづくことが予想される。もっとも、美術館などは比較的、客足の戻りが早めで推移している印象もあるのだが、同じく、まだ正確なデータがないのでわからない。

【演奏のクオリティは変質するが、酷くはならない】

②については、演奏のレパートリーの問題と捉えるか、距離をとることによるアンサンブルの精度や深さについての技術的な問題と捉えるか、複数の論点がある。

レパートリーの問題に関しては、このブログの書き手の見解とは異なる意見をもっている。確かに、受け手のほうはすこし感覚を変える必要があるだろう。オペラや声楽付きの大曲、マーラーやブルックナーなどの大編成の曲こそが、稀有壮大で、オーケストラらしいパフォーマンスであるというイメージから、脱皮する必要がある。例えば、弦楽四重奏曲であっても、フル・オーケストラと遜色ない迫力ある公演を経験してきた私としては、そのことをいくら強調しすぎても、したりないほどだと思うのである。もちろん、作品の形態に相応しい箱の大きさはあり、例えばサントリーホールの大ホールでソロ・ピアノや弦楽四重奏団の公演がある場合、偉大なアーティストであったとしても、それを聴くべきかどうか、私は迷うことがあるのも否めない。しかし、このようなときなのであるから、安心が確立されるまで、普段、楽しんでこなかった編成の小さな曲の響きや、同じマーラーでもシェーンベルク編曲の室内管仕様などに理解を示していくことも必要だとは思う。実際、その規模において、深い感動を味わわせるような公演をすることは可能である。

後者の技術的な問題については、まだ試行錯誤の段階というのは否めない。まだ演奏例自体が少ないものの、キリル・ペトレンコのゴリ押しで実現したベルリン・フィルのヨーロッパ・コンサートでは、少人数で演奏できる作品や編曲に絞り、科学的に安全とされる距離を守って演奏したが、白けてしまうようなクオリティではなかった。また、指揮者で、オーボエ奏者の茂木大輔氏は、距離をとって演奏しなければならない場合、「あまりに距離が遠くなってしまう奏者はヘッドフォンなどでモニターしながら演奏(共演)する」のもよいのではないかと提案している。テクノロジーなども用いながら、演奏のクオリティをさらに上げていく可能性もまだまだあるのではないかと想像する。

【オーケストラには責任がある】

③-⑤について、経営的に、背に腹は代えられないのだから、いきなり大規模な公演をやってもいいのではないかという意見には、さすがに同意しかねた。これまで黒字化を成し遂げてきたといっても、そこには演奏収入に加えて、多くの公的、私的な支援が加わっていることは否定できず、オーケストラは社会的責任が大きいからだ。だから、規模を制限するところから始めて、安全を確認しながら徐々に戻していくという姿勢は各楽団に共通していると思う。既述のように、ウィーン・フィルをはじめとする世界をリードする楽団も検証を進めており、それらに批判を加えながら、世界的にも、演奏家にとって許される形というのが決まってくるのではないかと思う。とりわけ、ウィーンの取り組みが成功すれば、世界の音楽関係者に勇気を与えることになるだろう。一方で、米国などは比較的、保守的な姿勢を採っている。METなどの歌劇場は、来年まで公演はできないだろうと言われている。そもそも論として、オーストリアなどはかなり細かい病気のコントロールに成功しており、それがゆるゆるな日本でも同じことが成功するとは限らないのだ。

【再開の指針】

再開の指針については、言うとおりだと思う。この病気にはまだまだわからない点も多く、自粛要請の解除自体、根拠があやふやなものであることから、楽団、もしくは、その業界団体がシニアをはじめとする、オーディエンス各層に十分な安心を与えることが難しい現状は明らかである。自信をもって正当性を訴えられるほどの根拠は何もなく、受け手の同意があったとしても、その結果にもある程度の責任を負うことは避けられない。なにか問題が生じた際に、社会的な批判のほうが大きい可能性もあり、また、例えばクラスター発生時などに臨時休演すしなければならない場合、それに対する補償も現時点では考えられていないのだ。格好は悪いが、周りの楽団や芸術団体、その他の産業の結果をみながら、すこしずつ前進を試みていくしかない。当面、公演をやれば赤字という状況は変わらず、地域やコミュニティのなかで果たすべき役割を別にすれば、予め決まっていた助成を出してもらうために公演をやるという楽団がほとんどだろう。これは助成の制度的な問題であって、すぐには変えることができない。一方、何かあれば、全く責任のとれないような方法で、公演を再開することは実際上、出来かねるというべきだ。

【楽団統合はマイナスの可能性が高い】

⑥は、これまでの議論と実績から、マイナスの可能性が高いと思われる。「大阪維新」の指揮下、大口スポンサーである関電などの提案で、関西にある楽団を減らすというような議論も活発化した時期があったが、その後の状況をみれば、統合せずとも、楽団は収支トントンで存続性を守ることができたのだ。確かに、関西の楽団の経営はその他の地域に比べて、やや厳しく、いくつかの楽団はなお、存続が危ぶまれる現状であることは承知している。しかし、即座に楽団を減らしてしまえば、それらの楽団が紡いできた歴史や、人と人とのつながりのなかで培ってきたものが消滅し、良い結果にならないという意見のほうが正しかったのは、あれから10年ちかくが経って、明らかになってきたといって構わないだろう。

もちろん、コロナ禍によって、そのリスクは再び、増大したといえる。だが、本当に必要なときがくれば、自然に集約は進むだろう。最初から統合してしまえば、スポンサーシップも、収入も集中し、合併したオーケストラの経営がよくなるという話でないのは、既に「歴史」が証明しているように思われる。ただ単に、これまで各楽団に集まっていたものが解体して、どこかに失われていく可能性のほうが高いのだ。

紹介のブログについては見るべき点も多いが、必要以上に、不幸を敢えて先食いしているような印象も受けなくはない。持続可能で、責任をもった運営はまだまだ可能である。本当にダメなら、もっと具体的な動きが出てくるはずだ。それがくるまで、私たちはできるだけの支援を試みていくほかにない。また、準備された基金を民間の寄附だけに頼らず、国庫から埋めるよう、働き掛けていく動きも徐々に進められている。山本太郎風にいえば、政府には通貨発行権があり、より大きな可能性があるのだ。なにしろ、補正予算の予備費で10兆円もの大金が積まれていることはそこそこ報じられてきた。

【提案】

現時点では寄附もさることながら、銀行などがオーケストラの返済を猶予しつつ、経営の回復を待ってくれている段階ではないかと思う。これまでのつきあいから、オーケストラが十分、ビジネス的な信用に値すると考えられている証拠だ。さらに、地域の芸術団体を潰すのは、決して、その地域に良い循環をもたらさないという考えもあるだろう。財政問題はきわめて重要であるが、いま、私が最優先すべきと思うのは、オーケストラのファンからの信頼や愛情をいかに繋ぎ止めるかということであり、ネット配信や、プログラムの工夫もそうだが、例えば、アパレルや小物など、物販を盛んにするなどの行為はオーケストラ本来の活動とは遠いようでいて、逆に愛着を高めることにつながるのではないかと思う。それは例えば、芸能や、ミニシアターの例で確認できるのだ。

また、3億円以上を個人から集めた「ミニシアター・エイド」のように、象徴的なフロントラインにまとまって訴え、活動をすることも重要なのではなかろうか。発信力は、分母が大きければ大きいほど良く、注目を集めやすい。そこにゲストを呼んで、オーケストラがめざす様々な目的のために、語ってもらうようなことができるかもしれない。各楽団独自の動きも必要だが、どうしても関心が分散してしまうのは避けられないことだ。まとまっていれば、ひとつのサイトをみていればよく、いろいろな動きに気づいてもらいやすい。同時に、公演をおこなうときの指針などは、なるべく共通したものでやるほうがよいだろう。安心を与える取り組みにも、これは活用できる。

これまでとはちがうけれど、面白いことをやるという発信ができればいい。例えば、新日本フィルはオーケストラ公演よりも、楽団員が企画する室内楽の公演のほうが、実はヴァラエティに富んでいて、面白いという面もあるのだ。それを1Fの小ホールではなく、大ホールにも適用すればいいと、私は以前から提案している(このブログで言ったりしているというぐらいの意味だが)。実際、ここ数ヶ月の間で、楽団員の発案によっておこなわれたテレワーク動画は話題を呼び、テレビにも取り上げられた。新日本フィルが過去数年で、このように注目された例は、私の知る限りではなかった。誰が、より効果的なアイディアをもっているのか、明らかではなかろうか。映画や落語、狂言、演劇など、いろいろなことに手を伸ばし、そのなかにも良いものはあったが、十分な広がりまでは持たず、むしろ、素晴らしい公演だったのに、客がいないというネガティヴな話題ばかりが広まりがちだった。

もちろん、発信者と受け手、双方の発想の転換は必要である。最初からすべてがうまく運ぶとは思えず、これまでのイメージから簡単に脱却できるはずもないし、いまはまだ、オーディエンスが自分は安全であると思って出掛けることさえ、簡単ではないのだ。ただ、リスクや問題を過大に評価して、責任のない行動をとるべきフェイズではなく、自分たちの行動を客観的に評価しながら、あらゆるレヴェルでのコミュニケーションを進めていく時間が来ている。

ただ、件のブログの書き手が自身も実業を続けてきて、これでなぜ、オーケストラは潰れないのかということが不思議に思えるのは理解できるところだ。わたしにとっても、そこは謎である。札響、神奈川フィル、日本センチュリー響などの楽団はかつて経営危機に見舞われたが、苦難を乗り越えて存続している。大阪市音楽団も市に見捨てられながら、その活動を続けている。一見、それほど人気があるとも言えず、圧倒的に尊敬されているわけでもない産業が、なぜ、これほどまでに粘りづよいのか。その実態は、すべてが明らかにされているわけではない。本来であれば、無理なお願いを通すことができる優秀なスタッフがいるのではなかろうか?この記事のきっかけをくださったブログに対しては、やや批判的な言辞が多くはなったものの、そちらに対しても敬意を表したいと思う。

2019年8月 3日 (土)

新海誠監督 映画『天気の子』~徹底した異化と、見えないものをみようとする努力

【二部作】

映画『君の名は。』の爆発的ヒットで、新海誠監督はマニアックだが、独特のこだわりのある個性派のクリエイターという位置づけから、大資本がリソースを集中し、過剰と思えるまでのコマーシャリングをかけても十分なリターンを計算できる存在へと進化を遂げた。一作前の『言の葉の庭』が1時間にも満たないコンパクトな作品で、1000円で観られるという戦略からリピーターが急増し、尻上がりのプチ・ヒットを飛ばしたことと比較すると、圧倒的な飛躍である。ここで培われた習慣が、長編映画のヒットにも少なからず貢献したことは明らかである。作品の魅力にとり憑かれた者たちは自宅のDVDを再生するように、映画館に向かい、金銭や時間というリソースを惜しげもなく消費して、作品を味わい尽くしたいと願うようになった。通えば通うほど、愛情は募っていくものだ。作画の圧倒的な美しさと、素晴らしい音楽とのタイアップは、スクリーンで繰り返しみる欲求を生ぜしめるに十分だった。DVDや、テレビ放送を待つというわけにはいかないのだ。

新海にとっての強みは『言の葉の庭』以前に、『雲のむこう、約束の場所』と『秒速5センチメートル』というクオリティの高い作品を残していたことで、『君の名は。』のヒットにあわせて、これらの作品もスクリーンで上映されることになるが、毀誉褒貶もある新作に比べると、これらの作品にケチをつける言説はあまり目立たなかった。ユーモアのすぎた性的描写や、思春期の少年の内面的な問題が大袈裟な事件(彗星落下と町の消滅)に結びつくストーリー構造、そして、青くさい恋愛の描写に批判も根強いが、最新作『天気の子』はそれらの言説と関係なく、公開11日にして、既に40億円を超える興行収入を稼ぎ出すドル箱として機能しており、勢いに翳りはない。

『言の葉の庭』をプレリュードとして、『君の名は。』と『天気の子』は二部作のように書かれている。どこか主人公たちも、似通っているのは偶然ではない。しかし、Trionfi という伝統でいえば、ちかい将来、さらにもうひとつ兄弟作が加わることも予想される。

【筋書きよりも視点の映画】

本作の弱点は、ストーリーの弱さにある。家出して上京した少年と、親を喪って貧困生活を送る少女が出会い、短い間でも、100%晴れにできる少女の特殊な能力を商売にしているうちに、予想どおり、矛盾が生じ、罰を受けるように少女は天の側にとられてしまう。少年は警察の勾留から抜け出したり、困難を切り抜けて、少女と再会し、再び悪化する天候と引き換えに、彼女との関係を取り戻すという物語だ。ファンタジーとしては、意外な要素がほとんどない。ああなって、こうなるだろうというのが予想できる。その点では、わかりやすい映画だ。しかし、この筋書きのなかに入りきらない、胸を絞めつける要素が多くあることを見逃してはならない。もっとも大事なメッセージは、不可視(インビジブル)なものへの想像力ではなかろうか。

例えば、私たちが見上げる空に、水があるという発想だ。これは実に身近な体験であり、空に水蒸気の粒が集まった雲ができ、それが発達すると雨が降ってくるということは、ほぼ誰でも知っている科学的事実であろう。それにもかかわらず、空に水があると言われると、パッと呑み込むことができない。こうした現象を、異化と呼ぶこともできる。これは、次に重要なキーワードだ。

気候変動が進むと、極地の氷が解け、海抜の低い島嶼国などは海に沈んでしまう危機を迎える。これもよく知られており、気候変動については、国際的な枠組みの中でも議論されている。だが、実際に東京やニューヨーク、ロンドンなどに住む人たちは、しばしば、このような問題を忘れている。我々が森林を切り倒し、化石燃料を用い、生活や産業に必要な、あるいは、それらを快適、便利にするエネルギーを多く用いることで、変動の幅は大きくなる。天気の子がもつ特殊能力のメタファーは、実は非常に身近なことに基づいているのだ。

それに対する罰があることも、私たちは十分に知っているはずではなかろうか。例えば、日本では毎年、異常な量の降雨が発生し、河川の氾濫や土砂崩れを引き起こすようになった。『君の名は。』の筋書きが明らかに東日本大震災と大津波に関係していたように、『天気の子』もこれらの時事問題とつながりがあるのは想像に難くない。日本だけではなく、欧州でも今夏、しばしば熱波が襲い、南仏など、広い地域で40度ちかい高温を記録しているそうだ。ところが、「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」というように、こうした感覚を私たちはすぐに忘れてしまうものでもある。季節が急になくなるわけではなく、夏は暑かろうし、冬には寒くもなる。異常が顕著に起きたときだけ、これは由々しき問題だと感じるにすぎないのである。

『天気の子』は意識しなければ、決して見ることのできない存在を中心に描いている。主人公の2人の境遇が、まず、そうだ。家出少年と、親の庇護を失って子どもだけで成り立つ家庭である。島から客船に乗り、家出した少年はネカフェで寝泊まりし、当面の仕事を探すが、うまくいくはずもなく、毎夜、ハンバーガー・ショップで飲み物だけを口にする生活に陥った。やがて、あやしげな編集プロダクション風の会社を営む男が、ちょっとした役割を提供し、彼に食住だけを保障するのが幸運にみえるほどだ。一方の少女は母親と死別したあと、弟と一緒に暮らすことができる生活を喪うことを畏れ、年齢を詐称して、自活を試みている。少年の家出の理由や、姉弟の父親がどうしたのかということについては描かれていない。社会の外で暮らし始めた主人公たちは互いの存在をみつけ、庇いあうようになる。彼らの恋愛関係はプラトニックなものにみえ、ラブ・ホテルで同じベッドに寝たとしても、キスや、ベッドインのシーンはないのだが、その本質は性欲よりも、他から目にみえないところにいる者どうしの共生感覚で成り立っているように感じられるので、さほど不思議ではない。孤独な透明人間が自分と同じ境遇をもつ、もうひとりの透明人間を見つけたとすれば、それは自然に結びつくだろうという話である。

【異化、移り変わっていくもの】

新海監督のもつ際立った才能は、物事を異化する力である。いま、述べたようなこともロジックとしては、きわめて単純で、巷間によく知れ渡っていることだ。そもそも「天気」という言葉自体が、晴れるも雨も、天の気分次第という発想からできてきたと思われる。これに神話がつながると、天照の岩戸隠れの故事のような面白いものも出てくる。天候は農業や商業に大きな影響を及ぼし、古代においては、暦に詳しいものが巫女や神官などとして特別な尊敬を集めた。例えば卑弥呼も、そんな役割を負っていたにちがいない。陽菜は、卑弥呼の後裔であると考えてもよい。ネット上を探索すると、陽菜の母が人柱であった可能性、あるいは、帆高を保護する須賀圭介の妻が人柱であった可能性も鋭く考察されていて、驚いた。

いずれにしても、新海監督はしばしば呪術的な女性の力に大きな敬意を払っており、いささか歪んだ内面性を感じさせるものの、恐らくは、そうしたところからエロティックな欲望が生じる構造になっている。『君の名は。』では組紐や口噛み酒がそうであったように、この作品では、鳥居や、陽菜の祈る姿がきわめてエロティックな象徴になっているのかもしれない。そして、そうしたものは新海監督の場合、異世界へのゲートにつながっていて、その先にはきわめて美しい世界が広がっているものだ。

この鳥居はきわめて神聖な雰囲気を備えたものでありながら、モデルが存在する代々木のある廃ビルの上に立つ不安定さが特徴的である。いわゆる「聖地」ともなりつつある、このビルはちかく解体されることとなっているようで、これほどタイムリーに解体されるとは監督も思わなかったろうが、近い将来、この場所がなくなってしまうであろうことは予想できたであろう。このことが重要なのであり、彼の生み出した神々しい伝統も、やがて消えてしまう前提でつくられている。現実のビルは耐震性もなさそうな、古びたい汚いビルにしかみえないが、映画のなかでは、このビルもなかなか魅力的に粧われている。古さのなかに、レトロな味わいがあった。そこは都会にあるオアシスのようでもあり、そのイメージをもたらすのは光のマジックである。だが、光はやがて消え、どこか別のところを照らすようになる。このように、新海監督は永遠というものを信じない。作品は、ただ一時の間借りにすぎず、長い時間にわたって絶対的な価値があるわけではない。

【クラシック映画】

彼の映画は、クラシックな流儀でつくられている。伝統的なもの、先人の努力にふかい敬意を払い、そこに自分らしいものを継ぎ足していくことで成り立っているのだ。なかでも宮崎駿は彼の「師」であり、とりわけ、『天空の城ラピュタ』はこの作品の下地となる表現をいくつも提供している。例えば、主人公の少年を保護して利用する大人と出会い、協力関係になり、最初は功利的だった大人がいつの間にか、彼らにふかく肩入れしていく構造は、同作品の主人公パズーと、(空の)海賊一味の関係と比較し得る。ところが、ここにも異化の妙味がある。ラピュタの一味は総じてまとまって行動しているのに対して、本作で主人公に肩入れする大人、須賀圭介と夏美の叔父/姪は、前者が少年にいくぶん冷淡な態度をとるのに対して、夏美は逃亡につきあうなどして共感的に振る舞うようにし、ちがいを際立たせているのだ。小さいグループではあるが、それを細分化することで味わいが加わっていく。

また、主人公が銃をぶっ放す場面は(ラピュタ的な)予想よりもかなり早く訪れ、その発砲が帆高と陽菜の関係をより追い詰めていく要素となっていった。下地とするものはあるのだが、その構成は大胆に換骨奪胎し、順番や意味付けを変えたり、細分化するなどして、異なった意味をもつものへと異化されていくプロセスに気づくべきだ。

クライマックスで天気の龍が落下する2人を鳥居のところに叩きつける場面は、庵野秀明の『エヴァンゲリヲン』を思い出させる表現だ。一見して、そこで2人が死んだようにみえるのはフェイクであり、2人は以後も離れて生き続けて、雨は止まず、東京の埋め立て地は海に沈むが、最後に恋人たちが田端の坂道で出会う半分だけのハッピー・エンドとなる。しかし、庵野ばりの暴力的な表現から、私は2人がやはり、あそこで死んでしまったからこそ、生まれる2つ目の結末であったという解釈も成り立たなくはないと思うのだ。陽菜は自分が晴れ女を演じ、それによって人々に喜ばれ、必要とされたことが生き甲斐となり、その役割を果たすために人柱となることを敢えて受け容れて、陽菜としての人生を投げ捨てる。ところが、少年はそれを潔しとせず、自分たちの関係が成就することが大切だと感じて、天から恋人を奪い返そうとした。組んでいた腕が離れ、一瞬でも互いがバラバラになってしまう表現は、ギリシア悲劇のオルフェウスとエウリディケの関係を思わせ、この場面はバロック的な聖画のごとき美しさと思う。そして、この物語にもオルフェウスが振り向いてしまったことでエウリディケが永遠に喪われるバッド・エンドと、神さまの救済で夫婦が再会する2つの結末が語られてきた。

日本神話でいうと、これはイザナギとイザナミの話に相当する。この2人の関係は最終的に、離縁という形になり、生と死は厳密に隔てられた。当然であろう。死者が、この世とあの世を行き来するのでは困ったことになるのだから。大きな事件のなかで結びついた関係は、容易に永続しない。これも、新海がずっと追ってきたテーマのひとつだ。奇跡を起こし、結びついたとしても、将来にわたって2人が幸福であり続けるとは限らない。むしろ、うまくいかない可能性のほうが強い。それだけの絆なのだから、もちろん、これは強くつづくであろうというハリウッド映画的な視点とは一線を画す発想になる。

【想像力と無関心】

神話もそうだが、歴史的なアニメーターの表現はこの作品にカタログのように敷き詰められており、当然、自分自身の作品も蔑ろにしていない。その中心にあるのが、不可視なものへの想像力だ。『言の葉の庭』では先生と生徒の恋愛を描くが、先生の側が理不尽な生徒との関係により不安定な精神状態に陥っており、味覚障害を抱えているという仕掛けがあった。女教師はこころの傷のために、いま、自分が向き合っている少年との関係にも、本気になりきれないのだ。夢に向かって一途に動いてきた少年が、それを理解するには時間がかかる。一方で、無関心というものの奇妙さについても、よく描かれている。この女教師のトラブルは校内で話題になっていたはずなのだが、靴づくりに夢中だった主人公には無縁のはなしで、それを知らなかったという設定なのである。『君の名は。』でも、主人公の少年は彗星によって消えた「糸守」の話題に関心がなく、よく知らなかった。もしくは、時間の流れのなかで忘れてしまうほど、薄くしか意識していなかった。あり得ないようで、特に、視野の狭い若い世代ではよくある話かもしれない。普通に可視のものでさえも、不可視な存在になる可能性がある。

だからこそ、3晩も同じところで、同じものを口にする少年に気づけた陽菜の感覚は凄いと思える。さらに、夜の店の黒服に対して、帆高が発砲した後、鋭い剣幕で彼を叱りつける場面も胸を衝いた。これらの印象から、のちに彼女が18歳ではなく、15歳であり、帆高よりも年下であるという事実が明かされると、驚くしかない。私はいま、敢えて1回だけの鑑賞に基づいて、これを書いているが、繰り返しみたときに、実は15歳の少女としてみた陽菜の印象を新しくするのは必定であろう。これも、ひとつの異化と呼んで構わない。その事実がわかったとき、ファストフード店の仕事をクビになった理由がわかるだけではない。語り尽くされていないことは、まだいくらでもありそうだ。不可視の要素が残っている。すべてを観たい。観なければならない。そうした欲求が生じることを、監督が期待したかどうか、わからない。商業的には、それが欠かせない要素であることは間違いないのだが。

不可視なもの、あるいは、見逃されがちな存在に対する想像力や、気づきの力、思いやり、そして、直向きな想いというのが、この作品の中心的なテーマとなっている。こうしたものが、思春期の男女の恋愛と相性が良いのは理解できる。あるいは、高齢者にとっても、これは切実な問題で、本作の2人の主人公も初盆について語ってくれる老婆と、仕事を通じてこころを通わせる。今回はその役に倍賞千恵子が起用されたが、前作で重要な役を担った故市原悦子さんのことを想うと、二重に涙が出るのであった。『君の名は。』では、同様の想像力が遠く離れた男女の入れ替わりというモティーフに結びつき、まだ出会っていない恋人との関係というロマンティックなストーリーを生み出した。しかし、考えてもみれば、ひとのこころ、特に恋ごころといったようなものこそ、もっとも身近な不可視である。

【視点と価値の枝分かれ構造】

とはいえ、新海誠の作品は、誰がどう観るかによって、まったくちがう表情をみせる。甘い恋愛をモティーフに、思春期の少年少女がメイン・ターゲットにはなっているが、例えば、私のようなロスト・ジェネレーションなどは、異なった視点を示す。また、筋書きや内面性に共感しない場合でも、その鋭い表現や、言葉の力、映像の詩的な美しさに共鳴する層がいる。反対に、歪んだ性的表現にNGが出る可能性も大いにある。大人がみるような映画ではないと感じる層もあるだろう。とはいえ、この監督の作品がもつ著しい特色として、異様なほど、多くの切り口をもつことがあり、誰がどの要素について、いかに語るかは予想がつかないということを指摘したいのである。私の場合には、視点の温かさというものをつよく感じた。この作品は社会のなかに隠されたものを、なるべく多く見ようとするものではないか。そして、それを監督の独特な発想に基づいて異化してみせる。視点は増え、価値は分化する。

代表的なものとしては、ラブ・ホテルがあった。大雨の夜、子どもたち3人が楽しそうに絶望的な、最後の夜を謳歌するラブ・ホテルは、そのカテゴライズから受ける陰湿なイメージがなく、一種の遊興施設として機能する。結果的に、ここは3人がバラバラにされる場所ともなったのだが、そのことによって、異化の価値は死ぬことがない。ドストエフスキーの『罪と罰』で、ラスコーリニコフがスヴィドリガイロフと会見する店が、ひどく印象的に記憶のなかへ刻まれるのとよく似ている。朝、陽菜はこの世を捨てて天に昇り、帆高は警察へ連行され、陽菜の弟の凪は児童相談所に保護される。大事を前に、ハイな状態で現実逃避するかのように少年たちが笑いあい、楽しむ表現は『君の名は。』にもあったものだ。そして、最初の頓挫を経て、やりなおすシナリオの流れまでが共通している。この過程で、少年が警察による勾留から抜け出したり、凪が計略によって児相を抜け出す表現は、やや現実味を欠くのだが、最近は容疑者や被告が逃げ出したりする事件がつづき、児相のほうも失敗を繰り返して、現実がフィクションに追いついて監督を助ける。

引きのつよい監督は、あわや小惑星を地球に衝突させるところであった。唯一の誤算は、丸山ほだか氏の活躍であろう。

【監督の構想に寄り添う音楽の工夫】

音楽面では前作につづけてRADWIMPSを起用し、『君の名は。』よりもいっそう深く、巧みな操作が行われている。意識的な異化であったのはわかるが、前作の主題歌『前前前世』がいかにもTVアニメーション風のもので、強くは響かず、結びのテーマ曲であった『なんでもないや』のほうが染みるものだったのと比べると、今作では主題歌の『愛にできることはまだあるかい』が映画の主張とよく噛み合い、決定的な浸透力をもっている。この主題歌の旋律は映画のなかで早めに登場するが、歌ではなく、ピアノによるインストゥルメンタルとして織り込まれるのだ。ピアノ版の『愛にできること・・・』の魅力が、この作品をどれだけ押し上げているかしれない。挿入的なものを除けば、RADWIMPSの作品だけが響く映画だが、一部では歌い手に女優の三浦透子を起用し、二重の異化を実現して、監督の構想に応えている。『愛にできること・・・』そのものもピアノ版による場面との対応でいくつかのヴァリエーションを経由し、ついに歌が出る瞬間と、さらに、もっとも大事な場面で「愛にできることはまだあるよ」と歌詞が変わる(といっても1曲の歌詞の最後である)異化で、次々に変容を遂げていくことになる。

ひとつのものが異なるいくつかの視点からみられ、さらに、それが筋書きのなかで微妙に変容していく。大きな驚きはないものの、その小さな変化が実に楽しく、感動的な映画だといえる。この作品は皆に多くのものを提供してくれて、すこしだけ優しい視点を育てる。見えないものを見ようとするようになる。あるいは、見慣れたものにも、また別の見方を与えようとする。汚いものが神聖に、見慣れたものを新鮮に、単純なものに複雑さを与えるのだ。そのような愛おしい映画としてみたいのである。まずは、空を見上げてみること。いまの季節、空の表情がひときわゆたかなことは、作品を後押ししている。

2018年9月 6日 (木)

イングマール・ベルイマン 映画『処女の泉』 @横浜シネマリン

【思考の組み替え】

恵比寿での上映が8/24日におわったベルイマンの映画を追いかけて、横浜シネマリンにて『処女の泉』を拝見しました。これまで『叫びとささやき』『ペルソナ/仮面』と観てきたわけですが、これらのなかでは圧倒的にわかりやすい作品といえます。正に寓話的な内容で、グリムの脚色以前の残酷な赤ずきんのはなしと似ています。ビルギッタ・ペテルソン(ペッテション)演じる思春期の美少女が惨殺され、ワーグナーの歌劇『ワルキューレ』のように自宅へと舞い込んできた仇を母親が見抜き、父親がこれを討つのですが、この間、神様は何にもしてくれず、最後、遺体の下から泉を湧かす奇跡だけを起こすというオチがつきます。単純な話ゆえ、プロットも早くから予想でき、大きな意外性もありません。

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2018年7月 8日 (日)

映画評論 ドキュメンタリー『ゲッベルスと私』(A German Life) @岩波ホール

【概要】

オーストリー制作の、ドキュメンタリー映画『ゲッベルスと私』を視聴した。邦題の「私」とは撮影時に103歳を迎えていたブルンヒルデ・ポムゼル女史のことで、WWⅡの最後の数年間にわたって、ゲッベルスの宣伝省において職員(タイピスト)であったという。ほとんどの場面は、その証言によって成り立っており、戦中、もしくは戦後のドイツ側、アメリカ側のプロパガンダ・ニュース映像、ゲッベルスによる「名言」を捉えた字幕や、演説の音声などを交えて構成したものである。証言映画としては、113分はかなり長めと感じられるだろう。邦題から想像されるような、ゲッベルスとポムゼルとの間の特別な関係はなく、原題は”A German Life”ということである。邦題は、夏休みの読書感想文のタイトルのようであり、内容とは必ずしも合致しないため、良いとはいえない。

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2018年5月10日 (木)

1年後の映画『愚行録』 (石川慶:監督、貫井徳郎:原作) 妻夫木聡&満島ひかり~映画評としてではなく、社会論として

【満島ひかりが目当てだった映画】

石川慶監督のデビュー作となった映画『愚行録』は、直木賞候補作となった長編ミステリーで、貫井徳郎の原作をもとにしています。観た直後は素材はよくとも、映画としてのクオリティは不十分と感じたのですが、2017年2月の公開から1年以上を経て、じわじわと時代を映す鏡として光を増してきています。同時期に話題になったTVドラマに、「ヒットメーカー」坂元裕二の脚本によるTBS系列の『カルテット』がありました。そこで主要キャストのひとりを演じた、満島ひかりを目当てにみた映画でした。

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2017年12月 3日 (日)

【番外記事(フットボール)】清水エスパルス、小林監督の評価について

フットボール「J1」リーグの清水エスパルスは、2017年のシーズンを8勝16敗10分の勝ち点34、年間14位で終えた。最終節の白星でサンフレッチェ広島を抜き返し、順位をひとつあげたが、ドロー、もしくは敗戦なら、ヴァンフォーレ甲府にキャッチアップされて、16位でJ2降格という憂き目も考えられる結果だった。シーズン前、第1目標は予想残留ラインの勝ち点40であり、それを越えたら、一桁順位でのフィニッシュをめざすというものだったから、目標をショートし、例年ならば、降格もあり得た結果である。上位と下位の差が大きく、下位3チームの結果があまりにも悪かかっために、エスパルスは命拾いした。降格チームの大宮アルディージャは前年5位と実力を高めていて、降格は免れたものの、エスパルスより下の結果におわった広島も実力の高いチームだっただけに、エスパルスは運がよかった。

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2017年9月 4日 (月)

柴口勲監督 映画『隣人のゆくえ~あの夏の歌声』 @K's cinema (新宿)

【ワンダーランド】

オープニングで遠くから聴こえてくる清純な歌が流れるなかで、校舎の窓外にアンジュレーションのある下関の風景が映り込むと、私の気持ちを察したかのように、そこで立ち止まった少女は窓を開け放ってくれた。不思議と波長の合う映画だった。再び閉じられた窓の錠は、女子生徒が多い学園のせいか、どれも中途半端な斜めに止められているのに現実味が感じられ、ユーモアを感じる。元来、ああいう錠なのかもしれないが。

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2017年6月22日 (木)

ダニエレ・ルケッティ監督 映画『ローマ法王になる日まで』 ”Call me Francesco” @シネマ・カリテ(新宿)

【導入と時代背景】

ダニエレ・ルケッティ監督の映画『ローマ法王になる日まで』を新宿のシネマ・カリテで拝見した。原題のほうがフレンドリーで、『フランチェスコと呼んで(英:Call me Francesco、伊:Chiamatemi Francesco)』となっており、副題は「みんなのための法王」である。中身はほぼスペイン語で出来ているが、映画冒頭に画面へと浮かぶのは英語題である。私の好むのは一部でも、思いきって意味を放棄したような詩的映画であり、史実をもとにする場合でも、より抽象的な表現こそが映画らしいものと考えている(例えば、ミック・デイヴィス監督の『モディリアーニ~真実の愛』)のだが、この作品は史実を若干、脚色しただけのドキュメンタリー・タッチであり、その範囲においては、非常に質の高いものといえるだろう。そして、過度にリリックな表現を嫌い、ほとんど表現に無駄がないということも強調できる。それでも、じわじわと深い涙を誘ったのだ。

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2013年5月 2日 (木)

You can meet Alice in these concerts! ~5月の予定

5月の予定です。まず、残念なおしらせとしては、二期会のコンヴィチュニイ演出『マクベス』は、仕事の関係でみることが難しくなりました。二期会&コンヴィチュニイの組み合わせは、これまでにも素晴らしいコラボレーションを形作ってきただけに、わが愛する小森輝彦氏がタイトル・ロールを演じること、さらに、私にとってもっとも好きなヴェルディの演目であることから、公演は楽しみにしていたのですが、こればっかりは仕方ありません。

さて、クラシカル・ミュージックのファンにとって、5月といえば、「ラ・フォル・ジュルネ」ですが、マリー・カトリーヌ・ジローというピアニストに関心をもったことや、以前から生で耳にしてみたかったアリアーガ・クァルテットが来る(しかも、人気がない)ということで、ほかに目ぼしい公演もない5日に、1日だけの参加を決めました。

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2013年3月 3日 (日)

You can meet Alice in these concerts! ~3月の予定

3月に、私が出かけるコンサートの一覧です。4月に北海道に行くこともあり、自分としては控えめにしてあります。また、この月は自分としては、まだ値打ちのわからないものに挑戦することを主眼のひとつに据えています。

3月3日(日) 新国立劇場(研修所公演)
 ヒンデミット:歌劇『カルディヤック』

*ヒンデミットの歌劇は日本で実際に見ることは難しいですが、単に響きだけでも、私を虜にするぐらいの魅力があります。最後の作品で、天文学者のヨハンネス・ケプラーを主人公に据えた『世界の調和』上演を目にすることは、私の夢です。新国・研修所は、これまでにも本公演ではできないような作品や、オペラの素材を工夫して使った独特のスタイルの公演で成功を収めてきました。欧州では当たり前の演目『カルディヤック』は、今日にも通じるテーマをもつ作品で、楽しみです。

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